2019.09.09 17:41
GIBSON J-45 66年製
何を隠そう、ぼくが一番最初に買ったマトモなギターがこのギターである。いや、正確に言えばマトモなのはブランドと品番のみで、あとはとんでもなくひどいギターだった。というのが正しい。
このギターを買ったのはまだ高校生だった18歳の時。
雑誌の通販ページをペラペラとめくっていたらこのギターが広告に載っていた。確か値段は20万円くらいだったと思う。
ギブソンのJ-45と言えば、いわゆる世界で最も有名なアコギのひとつで、サンバーストと呼ばれる茶色いボディのやつはよく見かけていたのだが、塗り潰しの真っ赤なカラーに白いピックガードが付いているモデルは初めて見たので、思わずそのページに釘付けになったのをはっきりと覚えている。
販売していたのは埼玉の中古楽器店だった。それ以来ほぼ毎日のようにぼくはその楽器店に「あのギターはまだ売れていないか?」「予約の電話はまだないか?」などと、向こうからすると、はたまた迷惑な電話をかけまくり、スーパーの鮮魚コーナーで、魚の内臓をゴミ箱に捨てるだけと言う心身ともにエモいバイトをえづきながら1ヶ月間毎日続け、お金を貯めて購入した思い入れがあるこの楽器。
埼玉から大阪の実家に届いた時、まず最初に興奮したのは僕ではなく母親(むつこ74歳)の方で、ヤマトさんからギターが届くなり、いの一番にダンボールからギターを取り出し、早く弾いてみなさい。だの、どんな音がするのかねえ?だの僕を焦らせるむつこ。僕のせっかちな性格はどうやら母親譲りらしい。でもそりゃそうか。20万近い楽器がウチに届くなんて、小さい頃にピアノを買ってもらって以来だもんな。。
てなわけで、ハードケースから取り出されたそれは想像してたよりもはるかにボロボロで、傷を通り越してあちこちが陥没している状態。ペグなんて腐っててまともに回らないし、明らかに木が割れてる箇所があったりしたのだが、なんとかチューニングし、とりあえずEコードを鳴らしてみる。
「ジャ〜ン!」
その時の家族の顔を未だに忘れることはない。
すっごい、ひどい音だったのだ。
むつこ「20万のギターってこんな音なんかねえ?」
みのる(父)「ばかもの、この乾いた感じが本来のギターの音というものなのだ」
ゆきえ(祖母)「おばあちゃんにはわからんわあ」
たみえ(妹)「音、悪っ」
具体的に言うなら、とにかくネックが完全に逆側に鬼反りしていて、いわゆるギターの低音の概念などまるでなく、ただペラペラのペシャペシャの干物のような音。
ネックも異常なくらい細く、元柔道部上がりのぼくのゴツい手にはあまりにも頼りない、そんなギターだった。
その時のぼくの目は、あのバイトでゴミ箱に捨てられた悲しいマグロの目のような顔をしていただろう。
ああこれはきっとマグロの呪いだ。悪い夢だ。
20万も出してわざわざこんな鳴らない見た目だけのギターを引き当ててしまうなんて、、おれはなんて愚かなんだ。。
そんなこんなでバイトも辞め、傷心し、このギターをなんとかいい音だと自分に思い込ませるためにシコシコ毎日弾いていたところ、すぐ近所に凄腕のギターリペア職人がいると言う噂を聞きつける。
それが枚方の川沿いにある「アウトプット」ギターと言う店で。ここに通うことがぼくの人生を大きく変えることになる。
学校から近かったこともあり、学校帰り、店にギターを持ち込み、店長であり、リペアマスターの園尾さんにギターを見せたら、一言。
「あー、こりゃきみ。つかまされたね。ガハハハ」
と言われ、このギターに何が問題があるかを訥々と1時間ほど教えられ、即、入院と相成ったわけで御座います。
それ以来というもの、学校の部活(柔道部)終わりにアウトプットギターに通う生活が続く。
マスターは店に行くといつもブラックコーヒーを入れて、マッキントッシュの古いアンプからアナログのレコードをかけてくれた。ジェイムス・テイラー。ダニー・ハサウェイ。ボブ・ディラン。オーティス・レディングやサム・クックにニール・ヤング。
ぼくが音楽をまだあまり知らないと言うと、これを聴けと毎回アルバムを一枚貸してくれた。
アナログレコードと、コーヒーの匂いと、床に散らばったエロ本。笑。が、ぼくのこの店での思い出だ。
ここに通うようになり、飲めなかったブラックコーヒーが飲めるようになった。音楽や、ギターの概念はリズムだってことを教えてくれたのも。この店。
学校の部活に行き詰まってたことも相まって、そんなこんなで、そんな生活が三ヶ月ほど続いたのち、ギターが直り、マイクを取り付けたり、ブリッジをかえたり、フレットをかえたり、ペグを新品に取り替えたり、ボディの中の力木を再接着したりして、大改造の果てにこのギターは生まれ変わった。
最初に弾いた時の感触を忘れられない。
干物とか言ってごめんなさい。
生まれ変わったその音はまさにヴィンテージと言えるジャキジャキとした乾いた音で、深く、どこまでも続く青い海みたいな音だった。ボディは赤だったけどな。
そのまま閉店まで「帰れ」と言われるまで何時間も弾いていたぼくは、この楽器がきっかけでまんまとヴィンテージ楽器と、音楽そのものの魅力にハマっていくことになる。
そして、それから大学に進学し、23歳でデビューして、東京に出るまでの5年間、ほぼ毎日店に通い続けた。
あれから20年だった今も、たまに顔を出すと、昨日もきたような顔で「おー」と迎えてくれるマスター。
今はすっかり現場に投入されることも少なくなってしまったこのJ-45だけども。いまもこのギターを弾くと、そんな学生だった頃の記憶と、ブラックコーヒーの匂いがふっとフラッシュバックする。
これは、そんな人生を変えるきっかけをくれた大事なギターだ。
余談だが、おれが使っている赤いテレキャスターのネックの裏には園尾マスターのサインが書いてある。
今なら、こう、はっきりと言える。
最初、音悪いとか言ってごめんな。
だけど、きみと、アウトプットギターがなかったら、きっといまのおれはいなかったよ。
おれを、プロのミュージシャンにしてくれて、本当にどうもありがとう。
この子のおかげで今の大柴サンにワタシも会えたんかな♪
お賽銭投げて拝みたいです、神やねw
ギターと共に語られる大柴ヒストリー 知れば知るほど今まで以上に大柴さんのうたがギターが色濃くささってしまいます
(´□`)⇒グサッ!!❤︎
この子も大柴さんと出逢えて幸せやね〜✨
青鬼truthと赤鬼が並んだひとりオーケストラ。ステキなライブだった思い出。
こんなに詳しく出会いを知ったのはじめてかも。
ふぁ、ファンクラブ入ってよかったわ。笑
音も他のコ達のコトも、また聞かせてね。